11 黄金の国ジパングの真実

size:153mm×115mm×26mm 400ページ

<作品の説明>
作家の磯部欣三さんは、自身も佐渡郡相川町で生まれ育ち、郷土研究家として何冊も佐渡に関する本を執筆しています。
現代の日本人には、あまり知られていませんが、この佐渡金山、知れば知るほど面白い歴史が詰まっているのです。
沢山の流人と金山を開発するために派遣された技師のおかげで、京の都を彷彿とする遺跡や言語(訛り)の数々。
哀しい女たちの影。
異国から密かに探索されていたであろうキリシタン墓の名残り…。
今回は、その物語を歴史的事実に基づきながら丹念に探り歩いた作家へのオマージュとして文庫本を改装しました。

以下、さど観光ナビより引用
遺跡の出土品から、佐渡には、1万年前から人が住んでいたことがわかっており、日本最古の歴史書である「古事記」の国生み神話には大八島の7番目として登場し、「日本書紀」の同じ神話には「億岐州」と「佐度州」が双子として5番目に登場しています。
奈良時代にすでに一国とされ、流刑地に定められた佐渡は、722年に皇室批判を行った万葉歌人の穂積朝臣老を始めとして、1221年に承久の乱で敗れた順徳上皇、1271年に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人、1434年に時の将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥など、中世までは政争に敗れた貴族や知識人が流されてきました。
平安時代後期の「今昔物語集」にも記録されているとおり、昔から金が採れる島として知られていた佐渡は、江戸時代に入ると、その有望性を見出した徳川家康が幕府直轄(天領)として本格的に金銀山開発を進め、採掘された金や銀が江戸幕府の財政を支えました。
(さど観光ナビより引用終わり)

<エピソード、制作時の事等>
「佐渡金山」のある新潟県佐渡市相川町は自分の両親が生まれ育った町である。
私自身はその相川町に数えるほどしか訪れた事がないので、思い出も記憶もほとんどない。
父は相川町の北の外れ、対岸はロシアで、家の周りには数軒の漁師の家と岩場と海しかない寂れた土地に生まれ、母は相川町内にあった神明神社の六人兄弟の四番目に生まれ育った。
神明神社は、私の曾祖父の代で閉じてしまったが、当時は羽振りが良かったようである。
ちなみに今回改装した本の中に、母の住んでいた家のあった坂道「紋平坂」の由来(38頁)と私の祖父の名前「佐々木勇」(321頁)が出てくる。
磯部欣三氏は、その生涯の大部分を相川町で過ごした歴史郷土研究家である。
文庫本の改装をしながら、過去の何処かで我が祖父と磯部氏が膝を突き合わせて語り合う様子を想像してみた。
今回の改装本の作成を通して、私は自分のルーツを探ってみようと思った。
佐渡金山は江戸時代、幕府の台所を支える貴重な財源であった。
相川町の昔の地図を調べると至る所に神社と寺があり、それこそ町内に一つあるのは当たり前。
山から海へ出るための坂道にも神社仏閣が点在している。
おそらく、外からの侵入者と中からの逃亡者対策なのだと思われる。
神明神社は、六角佐々木氏の流れを受け継いだ子孫が営んでいた。
そして氏子の管理を通して、幕府の用命を果たしていたと思われる。
しかし時代が現代に近づくにつれて、その神社の存在意義が薄れていき、祖父も母の兄も神社を継がずに神社は廃れてしまった。
そして戦後のGHQ政策による農地解放で、ほとんどの土地を手放した。
曾祖父から受け継がれた財産のほとんどは売られ、今、母の手元にあるのは佐渡奉行からの簡単な証文類だけである。
その証文類は、母の宝物として実家に大切に保管されている。
人から見れば二束三文の紙束だが、まるみず組のコンクールのおかげでその存在を思い出した。
それらの紙束はこのあと私が大切に預かり、まるみず組で腕を鍛え、キチンとした形にして残したいと思う。

<自己紹介>
平日は正社員として事務仕事をしています。
定年まであと約10年。
今は定年後の楽しみを増やすべく、古い本をかき集め、応用で修理を教わっています。
自分が好きな本を自分の手で直して本棚に並べるのが夢です。


スキル

投稿日

コメントを送信

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です